Message from Takashi Sakai酒井多賀志のメッセージ

メッセージC

ポリフォニー音楽は21世紀の日本の課題(1999)

 私は1981年から自作自演にとりくんで、ヨーロッパのオルガン音楽の伝統と日本的情感・ファンタジーを結びつけた作品を作曲し続けてきましたが、1990年代に入ってフーガやトリオ、変奏曲などポリフォニー(対位法音楽、又は多声音楽)の作曲を始めました。日本の音楽の中に、このポリフォニーのセンスを積極的にとりこむことが大事だと考えています。

 ポリフォニーの世界では、ソプラノ、アルト、テノール、バスは独立しており、それぞれ独自の自由な動きとハーモニーの調和という二元的対立の中で、緊張をはらんだ動的なバランス感覚を前提として展開してゆきます。私たちが普通耳にする音楽はメロディ(主役)と伴奏(脇役)に別れています(ホモフォニー)が、ポリフォニーでは、どのパートも主役なのです。
 ヨーロッパでは、このポリフォニーの歴史は古く、9世紀から18世紀まで1000年間、モテット、シャンソン、マドリガーレ、カンツォーナ、リチェルカーレ、フーガ等に用いられ主流でした。
 一方ホモフォニーは17世紀のモンテヴェルディの時代から始まりましたが、ポリフォニーに代わって主流となったのは、18世紀後半になってからで、かなり近年の事なのです。
 しかもポリフォニーは主流の座をホモフォニーに明け渡したとはいえ、今日まで全くすたれてしまったわけではありません。むしろその感覚はクラシック音楽の立体的な動きの中に生きており、音楽を支える骨組みや内臓のような役割を果たしています。しかし悲しいかな、日本にはこのポリフォニーの伝統が全くありません。
 明治時代の19世紀に、もはやホモフォニーが主流となっているヨーロッパ音楽を受け入れた日本では、このポリフォニーに対する伝統が無いために、その理解が著しく欠けています。
 バッハの平均律クラヴィーア曲集を通してフーガには一応接していますが、ピアノ演奏上の処理では、「テーマを強く、対位旋律を控えめに」というのが一般的です。
 しかし本来ポリフォニー音楽では、この両者は対等であり、その張り合う緊迫感がその醍醐味なのです。ピアノにおけるフーガの処理はメロディーと伴奏というホモフォニーへの翻訳的な解釈なのです。
 更に重要な点は、ポリフォニーは元来声楽のアンサンブルの為の形式であり、4声の曲には4人の異なる性格の動きが必要なのです。ポリフォニー音楽を前にして、その処理のしかたを考える以前に、先ずその声楽のアンサンブルの世界(例えばジョスカン・デ・プレやパレストリーナの作品)に身を浸して、その世界に生きてみることが大事だと思います。
 1972年から1991年まで私はシュトルム合唱団の指揮者を務めて来ましたが、この合唱団は16世紀ルネッサンスから、18世紀バロックまでのポリフォニー音楽を専門に取り上げるアマチュアの団体でした。
 その時目指したのは、ポリフォニーの演奏では、テーマと対位旋律の力は対等に置き、それぞれの性格を際立たせることで、各声部の動きを浮き上がらせ、劇的な展開を作り出すことでした。
 オルガンやクラヴィーアで、フーガを孤独に演奏している時には気付かない各声部の生々しい息使い、肉声による旋律が交わりあう暖かみのある実体感は、いまでもはっきり私の中に生きています。
 この合唱団での最後の数年間、私は指揮を止めてバスパートを受け持ち、団員の自主的なアンサンブルを促しました。この19年にわたる合唱体験は、私が現在ポリフォニー音楽を演奏したり作曲する上で貴重な礎となっています。

 私が初めてフーガを書いたのは1990年に作曲した「赤とんぼ」の主題による変奏曲においてでした。日本のメロディを使ってフーガが作れるのか不安でしたが、いざ取り組んでみると思ったよりスムーズに仕上がり、ポリフォニー音楽では対位旋律の工夫次第で如何なるテーマでも処理出来るのだという自信が出来ました。
 現在私は、更に日本語によるポリフォニー音楽の可能性を追求しています。1998年、佼成文化協会からの委嘱により、初めて日本語によるフーガを作曲しました。一センテンスの中に、日本語はヨーロッパの言語よりも音数が多すぎ、フーガのテーマに乗せにくい難問がかねてより有りました。その問題もこの時に解決し、大きな可能性が広がったように感じています。
 日本語によるポリフォニー音楽を作りたいので、歌詞を探しています。興味ある方のご一報をお待ちしております。