Message from Takashi Sakai酒井多賀志のメッセージ

メッセージM

バッハの音楽は森の調べ?(2006)

歌とオルガンあるいはマンドリンとオルガンなど、いわゆるジョイントコンサートを行った時、いつも感じることがあります。

それはアンサンブル曲とオルガンソロの曲があまりにも性格が違う事です。

例えば、歌とオルガンのアンサンブルの曲で、バッハのカンタータのアリアを演奏したとします。

その音楽は、聴衆にたいして解かりやすく、暖かく、日常の感覚で語りかけていきます。

しかし次にバッハの「前奏曲とフーガ」等を演奏し始めると、雰囲気は一変して、人間を超えた巨大な世界が、あたかも聴衆を無視しているかのように展開していきます。

同じバッハのしかも同じ教会の音楽なのにです。

私は最近アンサンブル曲は「お花畑」、あるいは「人のすむ空間」(ミクロコスモス)の音楽、一方オルガンソロの曲は「森」、あるいは「人の住まない未知の空間」(マクロコスモス)の音楽のように感じています。

私の住んでいる八王子からJRで西へ行くと高尾山になり、その先はしばらく鬱蒼とした森林が続きます。

その間に人家はありません。

やがて相模湖に近づくと人家が見え始め、相模湖駅の周りは都会となっています。

私は山歩きが好きで、毎月一度このあたりの山を歩いていますが、この都会と山(森林)の違いは、アンサンブル曲とオルガンソロの違いと似ていると思います。

森のような印象は、特にドイツの作曲家、中でもバッハの作品に強く感じます。

最近読んだ本〔魔女とカルトのドイツ史:浜本隆著:講談社現代新書〕によると、「ドイツ人(ゲルマン)はかつて森に住む民族であり、オーク信仰が根強くあり、樹木や樹木霊に敬虔な祈りを捧げるアミニズム信仰を持っていた」ようです。

「ドイツの地域がキリスト教化されていく過程で、これらのアミニズムは表面的には淘汰されましたが、心の深層では命脈を保っている」そうです。

その具体例として、「ドイツには、樹木の葉をまとった人間像(グリーンマン)が装飾として刻まれた教会があり、特に北方と南方のぶつかる地方、バンベルク、マールブルク、シュトラースブルク等に多い」そうです。

私は直感的に、ドイツのオルガン曲の複雑な性格は「森」と関係していると思いました。

又山を歩いている時にふと思ったことですが、ドイツ人にとって、オルガンの林立するパイプ群は、ひょっとして森そのものをイメージしているのではないでしょうか。

これらは直感で証明は出来ませんが、緑に囲まれた日本の風土で育った私達は、森を大切にする心を、ドイツ人と同じように持っており、それは共有できる感覚だと思います。

八王子の奥の緑深い、「夕やけ小やけふれあいの里」で、昨年バッハの「ドリア調トッカータとフーガ」を演奏したのですが、その時トッカータは「平原に吹く風」、フーガは「森」をイメージしたら、周りの景色と見事にマッチしました。

バッハやベートーベン、ブラームスの音楽には、たとえ激しい曲でも、何かほっとするような安心感があります。

それは森に抱かれている感覚なのかもしれません。

考えてみれば、人間も含めて生物は(海や川に住む生き物も含めて)、すべて森に包まれて生きているのです。

森は私たちを越えた大きな存在で、澄んだ空気、ミネラルを含んだ水等、私たちが生きていく為の大切な物を提供してくれるだけでなく、土砂崩れ、水害、風の害等、多くの災害からも我々を守ってくれる存在です。

生物は森なくしては生きていけないのです。

2005年の愛知万博のテーマも森でした。

前にメッセージ(J)で、バッハのオルガン曲は人の心をとらえる音楽と言うよりは、人の心が住める音楽であると言いました。

人は森そのものの中に住むのは難しいですが、心は森に住むことを欲しています。

森を大切にする最近の動きと呼応して、オルガン曲の中に森のイメージを重ね合わせることは、面白い試みかも知れません。