Message from Takashi Sakai酒井多賀志のメッセージ

メッセージA

クラシック音楽界に見られる民族主義的な流れを受けて(1998)

ここ30年くらい、私はある一つの事に注目しています。それはクラシック音楽界において民族主義的な流れが強まりつつあるように見える事です。

  最初に驚いたのはショパン演奏の変化でした。私が若い頃(1960年代後半)、ショパンの名演奏家といえば、フランスのA.コルトーと、その後継者であるサンソン・フランソワでした。彼等の演奏するショパンは、パリの社交界の華やかな雰囲気の中で生まれた作曲家というイメージで、繊細なニュアンスを強調した、洗練されたものでした。

 ところが10年程前に、ポーランド人の演奏する荒々しい、洗練とは程遠い演奏にびっくりし、これでもショパンか?と思っていたら・・・

 何と今日では、これがショパン演奏の主流だと聞いて、尚びっくりしたものでした。 

 次に驚いたのは、ドボルザークの交響曲「新世界より」の解釈の変化でした。

 私の若い頃この曲は、新大陸へ渡ったドボルザークが、開拓者達の逞しい精神に魅せられて作曲した曲で、第二楽章のみ祖国ボヘミヤを思いだして郷愁に浸り、第三楽章以降は、又現実にもどるという解釈でした。

 ところが最近では、この曲全体が新大陸から祖国ボヘミヤを思って書かれた、という解釈が主流のようです。ですから昔は、この曲の名演奏はアメリカのL. バーンスタインでしたが、今ではチェコのV. ノイマンということになっています。

 オルガンの世界でも1960年代に、ドイツのオルガニストH.ヴァルヒャがバッハの全曲録音レコードを世に出した時、すぐに続いてフランスのオルガニストM. C. アランが、同じく全曲録音を世に出し、オルガン界の話題を二分する時代がありました。

 この頃は、まだドイツの作曲家の曲をフランス人が全曲録音しても話題になっていたのです。

 しかし今日ではドイツ人の曲ならドイツ人の演奏家、フランスの曲ならフランス人の演奏家というように、作曲家と演奏家が同国人というパターンに急速におさまりつつあるように思います。

 1960年代から1980年代にかけて盛んであったバロック以前の古楽器による演奏も、背後に民族主義的な動きが読みとれます。

 はじめは皆バッハ演奏の再現をめざしていたのですが、やがてネーデルランド(ベルギー、オランダ)のひとびとはジョスカン・デ・プレ、J.P. スヴェーリンク、D.ブクステフーデあたりを最終の目的とし、イギリスはシェークスピアの時代であるルネッサンスのJ. ダウランド、H. パーセル、W. バード等をめざし、イタリアはG. フレスコバルディ、A. コレルリ、A. ヴィヴァルディ等を目指し、皆自国の過去の華やかなりし栄光を再現しようとしています。

 日本人は、それらをクラシック界の発展の動きとしてとらえ、留学してそれらを吸収しようとしていますが、その意義の重要性は認めるとしても、最終的には日本人が立ち入ることの出来ない世界へと至ることはまちがいありません。

 おそらくバッハやベートーベンの音楽を解釈する権威はドイツ人固有のものとなり、同様にショパンならポーランド、ドビュッシーならフランスというように固定されてゆくでしょう。

 我々は彼等がすることを、ただ模倣、選択することしか出来なくなるのです。いや、もうそうなっているような気がします。

 いままでは、世界でも有数なベートーベン弾き、モーツァルト弾き、ショパン弾きが日本からも誕生しましたが、今後は難しくなると思います。

 私達はヨーロッパの作品に頼りきらずに、それらから学びつつも、自分達の音楽を持たなくてはならない状況にきていると思います。