Message from Takashi Sakai酒井多賀志のメッセージ

メッセージD

バッハ没後250年を記念してバロック音楽について(2000)

 1960年代に始まったバロックブームに於いて、人々が最も注目した作曲家はJ.S.バッハでした。そのバッハが亡くなって、西暦2000年はちょうど250年にあたります。多くのコンサートでバッハの作品がとりあげられることでしょう。この機会に、ここ40年間にわたって私達が熱中してきたバロック音楽について考えてみたいと思います。

 バロックブームがわきおこる前の音楽界は、今思うとシンフォニーやオペラ等19世紀の音楽が盛んでした。それらは大抵一時間近くか、又は数時間かかる大曲が多かったと思います。それらは響きも大きく、そして重いテンポでした。いまでもフルトヴェングラー指揮のベートーベンや、ブルックナーのシンフォニーを聞くと、当時の雰囲気が蘇ってきます。

 フルトヴェングラーの演奏自体は大変素晴らしいものですが、そのような音楽ばかりの中に、F.アーヨをコンサート・マスターにしたイ・ムジチが演奏するヴィヴァルディの「四季」が登場したとき、人々はたとえようも無い爽快感を味わったものでした。

 オルガンの世界でも、1960年代の始め頃は、A.シュヴァイツァーやM.デュプレ等に代表される、レガートを中心にした重いテンポで、しかも8’を重ねたシンフォニックなバッハ演奏が普通でした。

 そこへ1962年にH.ヴァルヒャが、細かいアーティキュレーションによる、当時としては速めの生き生きしたテンポで、しかも8’4’2’Mixturによる、すっきりとした室内楽風な演奏で、バッハの全曲演奏を世に出したのです。それはバッハ演奏における革命的な変化で、当時の人々は初めて、バッハのフーガに於ける緻密な音楽的構造を聞き取ることが出来たのでした。

 この頃から、日本各地にオルガンが設置されはじめました。1970年に発行された原田一郎著「オルガンへの巡礼」によると、1960年以前は、日本全体でオルガンは僅か13台しかありませんでした。それが1960年代だけで、33台入り、現在では何と700台にもなっています。

 1970年代に入ると、バロック音楽に対する人々の関心は、曲の構造とか意味よりも、サウンドの方へ移り、次第に古楽器によるバロック演奏の復元へと向いました。以後この方向は変わらず、今日まで来ています。

 私も1970年代前半は、この流れに乗っていました。しかしバロック界の関心が、曲の構造や意味から次第に遊離しつつあることに、私は違和感を覚えるようになりました。当時合唱指揮もしていた私が受けたショックは、バッハのカンタータの演奏の変化でした。

 それまでK.リヒターの演奏するカンタータ第4番「キリストは死の縄目につきたもう」が大変好きだったのですが、この曲をN.アーノンクールの指揮する古楽器の演奏で聞いたとき、それは全く別の曲であるという印象をうけました。

 K.リヒターの演奏は、カンタータの歌詞の意味を深く反映させた大変ドラマチックなものでしたが、N.アーノンクールの演奏はバロックの響きに重きをおいた、サウンドファッション的な演奏で、ドラマ性はほとんど感じられませんでした。

 このことは「マタイ受難曲」でも同じで、古楽器の演奏では、あの長い曲全体がバロックのサウンドファッションになっているように感じられます。

 同様に「フーガの技法」に於いても、曲の構造を明確にすることを第一に考えたH.ヴァルヒャの演奏と、バロックサウンドに目が向いているムジカ・アンティクヮ・ケルンのアンサンブルでは全く印象が違います。

 バロックのサウンドを追求することを私は非難するつもりはありませんが、私がバッハに期待したものは、彼のポリフォニーの精緻な構造と、歌詞の内容をモティーフに託す技術でした。

 バッハの「フーガの技法」が何の楽器の為に書かれたか、議論された時期もありました。G.レオンハルトは、14項目(Bachの名前はB=2.A=1.C=3.H=8.で,2+1+3+8=14)の理由をあげて、チェンバロの為の曲であると結論づけています。

 しかし晩年のバッハは「フーガの技法」をはじめ、「音楽の捧げ物」など極度に抽象的な作品に向っていきました。ロ短調ミサ曲の”Credo”に於ける”Confiteor”はこの時期の作品ですが、実際の演奏効果よりも、ポリフォニーの展開と音楽の意味付けの方がまさっているように思います。

 「フーガの技法」でもNo.IからNo.VIIまでは、演奏する喜びが感じられますが、No.VIII以降は、実際の音にする意味が感じられないほど抽象的な曲が多くなってきます。特に4声の鏡のフーガはそうです。

 「フーガの技法」は何の楽器の為に書かれたか、という問いにたいして、私はこの曲は特定の楽器の為に書かれたのでは無いと考えています。バッハはこの曲において、ポリフォニー音楽の音組織をギリギリまで展開することに極度に集中しており、何とかの楽器の為にという興味を完全に失っているのです。作曲家自身が何も指定していないことこそ、そのことを物語っていると言えましょう。  「フーガの技法」とロ短調ミサ曲は、共に極限の作品です。しかしその極限のはるか手前に、ポリフォニーの展開と音の意味付けにおいて、人々が豊かに生きられる世界が、幅広くあるように思います。バッハの中期くらいの様式で、我々の身近な素材を展開することを、先ずやってみようではありませんか。メッセージ(C)でのべた「ポリフォニー音楽は21世紀の日本の課題」は、このような想いから出ています。