Message from Takashi Sakai酒井多賀志のメッセージ

メッセージE

新世紀が始まり、新しい音楽について考えてみましょう(2001)

 19世紀から20世紀にかけて、次第に複雑になっていったハーモニーの変化。それはやがてアバンギャルドな無調音楽にたどりつくわけです。その音楽は、1970年代に最盛期を迎えましたが、20世紀末には下火になってしまいました。

 想えばアバンギャルドな音楽は、千年の単位(ミレニアム)と重なる、最も大きな世紀末的混乱の感情と結びついた、言わば一過性の芸術だったのかもしれません。

新しいミレニアムでは、再び音楽の3要素である、旋律、リズム、ハーモニーを基本にした音楽が展開されることでしょう。しかしそれは昔に帰ることを意味するのではなく、やはり新しい改革が必要です。

アバンギャルドの音楽家たちも改革の作業を続けた結果、あのスタイルに行き着いたわけですが、私は彼等のやり方に初めから疑問を持っていました。

彼等は1970年頃こう言っていました。「バッハは同時代人からは理解されず、ずっと後の時代になって理解された。つまり高度な芸術をやっていれば、いつかはきっと理解されるはずである」と。更に、「今は耳慣れなくても、慣れればバッハやシューベルトと同じように、自然に聞こえるようになる」と。

当時フルトベングラーの演奏に心酔していた私は、彼が伝統的な音楽と無調音楽に対して述べている次の言葉に心を留めていました。

「昨日まで生々と生命を保っていた芸術が、今日いきなり死滅するはずはなく、また昨日まで生々とした活動を続けて来もしなかった芸術が、いきなり今日芸術の機能を完成する筈もない。」(1954 :すべて偉大なものは単純である)

バッハの対位法音楽は、確かに高度なものですが、彼が用いた音楽上の素材はコラールであったり、民謡であったり、誰かのテーマであったり、すべて人の心に自然に存在しているものでした。

ですから複雑な展開で、初めは理解されにくくても、くり返し聞いているうちに、聴き手の心の中で、音楽が生育し成長し、やがてしっかりと根を張っていったのです。

それに対して、アバンギャルドの音楽家達の素材は、かれらが作り上げた理論に基づく、全く人工的なもので、元来人間の心には存在しない音の繋がりなのです。

あれから30年たった今、それらは人々の心のなかで生育しつづけているとは思えません。

また「慣れればバッハやシューベルトと同じように、自然に聞こえる」ことにもなっていません。

しかしそうは言っても、私はアバンギャルドな芸術が、今後全く存在意義を失うかというと、そうとも思っていません。我々のまわりには、数多くの人工的な物も存在しているからです。

私はアバンギャルドの音楽にずっと浸っていることにも耐えられませんが、それ以上にクラシックをはじめ、自然的な音楽の決まりきったパターンが、延々と続くのには耐えられません。それらは何か偽善的な感じがしてしまうのです。

同時代の作曲家では、A.シュニトケに注目しています。彼の音楽は、調性と無調の間を行き来するものですが、そこでは自然的な音と、人工的な音が共生しており、新しい可能性を内包しているように思います。

私の作曲したものは、気付いてみると多くの作品において、後半に無調的なブラックホールがあり、それから脱出するようなパターンが見られます。これは1985年に作曲した、瞑想的即興曲「流離」から既にそうですが、それに気がついたのは、つい最近のことです。

調性と無調の問題だけでなく、20世紀後半のバロックブームの時代に、古楽器の分野で活躍した人々の残した成果も大事だと思います。

特に、様々な調律の可能性、不均等なイネガルのリズム、長い音の真中を膨らませるメッサディ・ボーチェ等、新しい音楽にとっても大変面白い、有効な技術だと思います。

とにかく新しい時代では、一つの方向だけではなく、今まで存在した、あらゆる時代、あらゆる分野の音楽が対等な市民権を得るべきです。

ですから12世紀のオルガヌムとジャズが結びついてもいいし、ロックとパレストリーナのモテットが合体してもいいし、反対に、ある特定の分野の音楽のみにこだわり続けても、それは自由です。

私としては今、変拍子のリズムと、対位法音楽を結びつける事にこだわっています。

19世紀から20世紀にかけて、次第に複雑になっていったハーモニーは、今日充分すぎるほどの発達をみせていますが、それに対して拍子やリズムは昔からあまり変っていません。

私はこの分野に着目し、1999年から8分の5拍子や8分の7拍子を含む、いわゆる変拍子の作品を作曲(Op.50以降)しています。とりわけそれをフーガで展開しますと、対位法の絡みの効果とあいまって、目が眩むような躍動感と、活気に満ちた開放感が生まれます。

ただ難は、こうしたリズムで演奏するように私達の体はまだ慣れていないので、演奏に際して、心と体の動きのバランスが大変難しいことです。

もしかしたら、アバンギャルドの音楽と同じように、このリズムも人工的な物ではないかという疑問がおきましたが、2拍と3拍の組合せによってうまれる変拍子は、我々の日常会話の中で頻繁に使われており、自然に存在する物です。

日常会話のリズムで多声のフーガを展開すれば、それが定型のリズムで作られた今までのフーガより活気がでるのは、ある意味で当然とも言えるでしょう。

この変拍子の曲を演奏する面白さを伝えるために、53歳の体に鞭打って弾き続けていますが、新しい事を取り入れるのが好きな、若い世代の演奏家なら、私より簡単にマスターできると思いますので、若い人々のチャレンジに期待しています。

コンサートでは、この種の曲は必ず入れてありますので、是非聞いて下さい。