Message from Takashi Sakai酒井多賀志のメッセージ
メッセージJ
心を捉える音楽、心を開放する音楽、心が住める音楽(2003)
音楽といえば「心を捉える」のが当たり前だと思う人が多いと思いますが、「心を捉える」ということは、一方で「心を束縛する」ということでもあります。
私も若い頃は「心を捉える音楽」ばかり追い求めていました。
同じバッハの曲でも「トッカータとフーガニ短調」のような演奏効果の高い曲が好きでした。(今でも好きですけれど)
しかしこうした印象の強い曲は、夜中に頭の中でしつこく鳴っていて眠れないこともありました。そうしたとき、全く印象の違う曲を意識的に思いだし、その曲を心の中で歌うことによって、ようやくその束縛から逃れて、眠れたということもよくありました。
概して19世紀ロマン派の作品は、「心を捉える」要素が強いと思います。
それはメロディが主役で、伴奏という従者を従えているから、聴き手はすぐメロディに注意が向いてしまうからです。
とくにポピュラー性の高い、メロディの美しい曲はそうです。
私もそうした曲は好きなのですが、何曲も続くと逃げ出したくなります。
ショパンの「別れの曲」で考えて見ましょう。
この曲ではメロディの美しいA,半音階を交えた激しいB、再びメロディの美しいA、の3部形式です。
この曲を聴くのが好きな人は(A)部分だけしっかり聴いて、(B)の部分は聞き流している人も少なくないのではないでしょうか。
でもそれでいいのです。このわけの解からない(B)によって「心が開放されている」のですから。
しかし(B)の部分も意識的に聴かざるをえない演奏者はどうでしょうか。(B)の部分も意識的に認識してしまった演奏者にとっては、それさえも「心を捉える音楽」を通りこして「心を束縛する音楽」になってしまっているのです。
更に、そうした曲を作曲する人はどうでしょうか、彼にとってはさらに破壊的な音組織でなければ開放されないでしょう。
そうした循環の中で20世紀半ばの前衛音楽(アバンギャルド)が生まれたのです。
聴衆と演奏者、さらに作曲家に分化したヨーロッパ音楽では、曲に対する想いの温度差は凄い差です。
一日中音楽に何の関わりも持たずにいる人から、一日中最強度の刺激にさらされている人々まで、その差は気の遠くなるレベルです。
私自身は自作自演を行うことによって演奏家と作曲家の溝は埋めましたが、まだまだ全体の差は巨大です。
そこで私がお薦めしたいのは、「心が住める音楽」です。
それはポリフォニー音楽です(何だそうか、という前に聞いて下さい。ポリフォニーをこの視点でのべるのは初めてです)
ヨーロッパでは、このポリフォニーの歴史は古く、9世紀にさかのぼります。
つまり単旋律のグレゴリオ聖歌や民謡に対して初めて別の旋律をつけたのが、ポリフォニーの歴史の始まりなのです。
そこではヨーロッパ音楽の最も原初的な姿がみられます。最初期の協和音程は1,4,5,8度の音程といわれていますが、後には3度も6度も加わりました。(逆に4度は不協和音程になりました)
要するに主なるメロディに対してハモッたと思える別の旋律を発すればいいのです。(カラオケでこっそり試してみてください)
主なるメロディに対して別のメロディが存在すれば、それはテーマの絶対的な印象を相対化することですから,その束縛から「心を開放する」ことになります。
更に一つのメロディに対して複数のメロディが存在するということは、そこに複数の異なった心が存在しているということでもあります。その時その音楽全体は複数の「心の住居」になっているのです。
「心が住める」音楽は「心を捉える音楽」のように何かを訴えかける音楽ではありません。
「心が住める」音楽は「心の住居」です。そこに足を踏みいれ、住み心地を味わってみて下さい。
そこにはアマチュアからプロの音楽家まで憩える音の空間があります。
フーガはその住み心地をより良く追求した「心の住居」なのです。
バッハの「前奏曲とフーガ ハ長調BWV547」はそうした視点で演奏すると、素晴らしい世界が開けます。
そうした視点でこの曲を聴いてみて下さい。
(以上)