Message from Takashi Sakai酒井多賀志のメッセージ
メッセージN
オルガンは何故大きいのか(2007)
オルガンは、二段鍵盤(独立していること)以上とペダルを持っている楽器です。
二つ以上の鍵盤と結ばれたパイプ群は中央に置かれ、左右にペダルと結ばれたパイプ群が半音づつ交代に並べられているのが一般的です。
二段鍵盤の場合、バロックでは、主鍵盤とポジティーフ鍵盤からなり、主鍵盤のパイプ群は会場全体に音が豊かに響き渡る位置に置かれ、ポジティーフ鍵盤のパイプ群は会衆に近い、低い位置に置かれます。
つまり朗々と力強く響く主鍵盤に対し、明るく軽快な動きを際立たせるポジティーフ、その二つをしっかりと支えるペダル、というのが基本的な性格です。
三段鍵盤の場合、第3番目の鍵盤はスウェールです。
この鍵盤は主鍵盤の上に置かれ、主鍵盤より残響を多く含んだ、柔和な優しい性格を持っています。
このような形のオルガンが多く造られるようになったのは北ドイツで、17世紀後半からです。
ヨーロッパ全体を巻き込んだ宗教戦争(30年戦争:1618~1648)によって、ドイツの町々は大変荒廃しました。
ドイツは北方プロテスタント、南方カトリックという言葉に象徴されるように、プロテスタントの多い北では、会衆全員が大声で歌うコラールを、オルガンがしっかり支えなければなりません。
他方カトリックが多い南では、コラールよりも聖歌隊や独唱が中心で、オルガンはあまり大きくなくても良かったのです。
コラール中心の場合、オルガンは大きくなければなりませんが、この大きなオルガンの建造は、ドイツが最も荒廃し、経済的にも厳しい中で行われました。
日本では経済成長に伴って繁栄の象徴のように、オルガンが普及しましたが、バブルの崩壊と共にそのスピードは鈍り、将来が明るいとは言えません。
経済が充実してくるに従って大きなオルガンが入り、経済が停滞してくると下火になる、という状況は、ルネッサンスのスペイン、19世紀のフランスでも同じで、別に珍しいことではありません。
しかしドイツは別でした。
ドイツが最も荒廃し、経済的にも厳しい中で、どうして大オルガンの建造が可能だったのでしょう。
バッハがハンブルクの教会のオルガ二ストに就職しようとした時、多額の寄付をするように求められ、バッハはそれを払えなかったので、就職出来なかったという話があります。
おそらくオルガン建造の時にも、多くの寄付が教会員達に求められたと思います。
彼らは、皆で心を合わせてコラールを力強くうたい、一致団結して、ドイツの荒廃した状況から立ち上がろうと、寄付ないしはボランティアを通して、オルガン建造に賭けたのです。
彼らが出来たばかりの大オルガンの伴奏で、大声で思いっきりコラールを歌った時の感動は、きっと凄いものだったでしょう。
我々はバッハの前奏曲(トッカータ、幻想曲)とフーガに注意が向きがちですが、ドイツ人にとって最も中心なのはコラールです。
「目覚めよと呼ぶ声が聞こえる」や「主よ人の望みの喜びよ」など、コラールは美しい曲も多数ありますが、一般の日本人にとっては、どうしてもドイツ語を意識しなければならなくなり、コラールが日常的になるには、越えがたい壁があることも事実です。
ですが、会衆が思いっきり歌うのをオルガンで伴奏する、ということを日常的にする方法もあります。
文部省唱歌の「故郷」「朧月夜」「夏は来ぬ」や童謡の「あかとんぼ」「夏の思い出」「夕焼小焼」などをオルガンのコンサートで会衆に歌ってもらうのです。
この際、オリジナルの伴奏ではバスがあまり動かないので、私の場合オルガンに相応しいようにバッハに習って、4分音符又は8分音符で、バスの動きを積極的にしたアレンジを行っています。
そうすると、会衆にはバスの動きで曲のテンポが伝わり、そのうねるような刺激で会衆の声も乗ってくるのです。
北ドイツのオルガンのペダル鍵盤が充実しているのも、それと関係があります。
八王子にある「夕やけ小やけふれあいの里」でのコンサートは、今年で8回めを数えましたが、会衆全体の歌を伴奏する醍醐味は、大オルガンの魅力の原点だと思っています。 12月22日に福島ホールでソプラノとのジョイントでクリスマスコンサートがありますが、ここでも「もろびとこぞりて」と「きよしこのよる」を会衆全員で歌う予定です。